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【タイピングと絶望と当たり前について】

どうしようもなく、

タイピングで指がもつれ、

何度も書き直す自分にイライラしてしまう事がある。


書いては間違い、買いては間違いを繰り返す。
 修正に時間を割かれ、本来の2倍3倍の時間が、かかってしまっている自分がいる。


一度こうなってしまえば、

案外人間脆いものであることもたかだかタイピングのイライラでよく分かった。


修正に時間を取られまいと丁寧に書こうとするが、手が焦る。
 
焦りがミスを生み、自己嫌悪が強くなる。
 
その繰り返しは更なるフラストレーションを呼ぶ。
 
最後は爆発してしまう。もう嫌だ、私には出来ないと。
 
1つだけ言おう。
あなたはたかだか一日出来なかっただけで数回絶望しただけだ。
たいした事ない。
 
一万回挑戦してもダメだったなら、まだ分かる。
もしかしたらあなたは視野が狭くなっているのではないか。
ほんとに本気でやっているのか、と疑いたくなる。
 
まあ、もっとも、こんな事言われるのが嫌なら人は行動がはっきり分かれるものだ。即ちやるかやらないか。
 
決めるのは自由だがやるなら
どんどん自分に立ち向かえ、悩む暇あるならやれ。
 
それだけの事なのだ。
 
 
確かに、言いたい事と書きたい事のスピードが伴わない焦り、
自分の技術力のなさへ・無力感への怒り。
言い出したらキリがないネガティブな感情が更なる悪循環を呼んでしまう。
 
その感情は痛いほど理解できる。
まさしくそれを経験している人間だからだ。タイピングすら満足に打てない奴がブログで食っていこうとしている。
 
笑える。滑稽な話だ。
 
しかし、ワタシは書くしかない。
書くしか自分を活かす道がないと分かっているからだ。
 
どうすればこのスランプから脱出できるのか。
それを考える事にエネルギーを使うべきなのだ。
 
タイピング出来ない事に嘆いていても経験値は貯まらない。
時間の無駄だ。この際一切の感情は忘れてしまえ。
 
出来ないなら一回すっぱり辞めてしまう。それも必要かもしれない。
 
ネガティブな感情の中にいるときは、人は目の前のことにすら関心が向かない。
 
自分が主語になり過ぎている。
 
だから今はその回答が見えない。
余裕無し、先行きの見えない不安、考える時間を与えてしまっているのだろう。
 
自分を取り戻し、タイピングスキルをあげたいのなら、
やはり書く。やりつづける事が必要だ。
 
自分を追いつめるのではなく、正しく追い込むことが必要だ。
 
自分に余裕がないこの感覚、焦り、絶望。これらは非常に貴重な経験である。
挑戦したものにしかたどり着けない境地だ。
 
この経験は必ずワタシの糧になると信じて、今はひたすら書き続ける。
やるしか他に方法はない。
 
そしてまさに今、丁寧に1文字ずつ、悔しさを込めて打っている。
このもどかしさが必ず自分を強くする。
 
まだ始まったばかりだ。
じっくりと、始まったばかりの絶望と向き合おうと思う。
 
これからだ。
 
もしかしたらタイピングだけでも人生変わるのかもしれない。
 
上手くまとまらないので整理したい
 
<疑問と答え>
なぜタイピングでイライラするのか
その問題を解決する方法はあるのか
その中で一番自分にストレスがない方法はあるのか
もしくはそもそも仕方ないものなのか
 
<多分これが答え>
絶望するのは当たり前。出来ない事をやろうとするから
 
<実務的な解決法>
文章を書き続ける。何も書けないならあいうえおから始める。
いっそのことスピードにはこだわらない。
いっそ一旦離れてみる。短期長期問わず。散歩する。パソコン触らない。など
作業は度してもやらないと行けないなら、根性決める。
時間がかかっても丁寧に正確なタイピングをし手に覚えさせる。
 
<精神的な解決法>
決めたからにはまず手を動かす。
時間はかかることを自覚する。
それでも「ワタシは出来る」と思い込む。
出来る出来ないではない。やる。
 
 
 
それまで何もしてこなかった自分が思うように低ピングすらも出来ないのかと思ったら、軽く絶望する、が、考えてみたら、それ当たり前じゃないのか?
 
なぜならあなたは今、0から1を生み出そうとしているからだ。
 
今まで出来なかった事をしようとしている。そら絶望したくもなる。
 
そう、あなたのその反応は当たり前なのだ。
 
あなたの抱くネガティブな感情は正しい感情の現れなのだ。
 
それは成長に伴う痛みと言い換えても良い。
 
ここで、ふと思い出しア、ある番組での非常に印象的だった話を紹介したい。
 
嫁と姑の家で皿洗いをしていた話だ。
 
ある日の夕飯後、一人で皿洗いをしていた時に、
嫁がうっかり手を滑べらせ皿を床に落とし割ってしまった。
 
その皿は姑が大切にしているお皿だ。
 
そのことを知っている嫁は心底恐怖したが、
姑が台所に戻ってきた時に正直に告白した。
 
すると姑はこう言ったのだ
「割れてしまったのは残念だけど、
皿洗いをしない人は割る事も出来ないわ、いつもありがとう」
 
このエピソードは、嫁姑の心温まるエピソードとして紹介されていたが、
私が今回伝えたいのは、そこではない。
 
皿洗いで皿を割ってしまう人は、皿洗いをした人であり。
何もした事のない人は皿を割る事すら出来ない。
 
これは、挑戦者の挑戦する姿勢を自覚させた事、
と言い換えても良いのではないだろうか?
 
今あなたが絶望しているのは、
絶望するだけの挑戦をしようとしている証拠なのだ。
 
タイピングだからといって侮る事なかれ。
 
自分がやった事のない領域はどこだってゼロ領域なのだ。
 
イライラするのは当たり前、できないのは当たり前。
そう受け入れて、次にどうするかを考えてみる。
 
答えはあなたの中にしかないが、やれば何か見えてくるはず。
 


まずやり続ける。
 


そこからもう一回、イライラしてみる。

 

 

 

見える景色は同じだろうか。